次ページへ »


4月も余すところ残り一週間を切り、ゴールデンウィークと称する大型連休を間近に、世の中、何やら落ち着かないように見える。
今日の飯田地方、朝は快晴。しかし、午前10時を過ぎるころからやや薄曇となる。なかなかすっきりした晴天が見られないこの頃、誰しも連休に向けて、その天候が気になるところだろう。
そういう私、連休とは全く無縁の暮しだが、それでも、気持ちよく晴れあがった休日には、外に出たくなるというのは正直な気持ちである。
この時期、山の麓で頻繁に見られるのが、この山吹(やまぶき)である。連休を前にそろそろピークを迎えている。「七重八重、花は咲けども山吹の、実の(蓑)ひとつだに、なきぞかなしき」。太田道灌(どうかん)の逸話と共に知られる兼明親王の詠だが、狩りの途中に雨に遇い、農家に蓑(みの)を借りるため立ち寄った武将に、その家の娘は何も言わず一輪の山吹(やまぶき)を差し出した。彼は憤慨して帰ったものの、それが詠に例えた“貧しきゆえに蓑(みの)もない”との意味と教えられ、自分自身を恥じた。その逸話の真偽のほどは分からないが、なんとも心に残る話である。
当然、己を恥じるだけでは何も変わらないが、そんな思いにさえ気付きもせず、教えられても恥もしないように見える、今のお偉い方々との質の違いを感じるのは、私だけだろうか。
ちなみに、この詠に出てくるのは、園芸種の八重山吹(やえやまぶき)。一重のものは数年おきに細長い実を付けるようである。
別名を“面影草(おもかげぐさ)または、鏡草(かがみぐさ)。英国では“ジャパニーズローズ”などと呼ばれている、日本原産のバラ科ヤマブキ属の落葉低木。

4月も下旬、さすがに朝晩の冷え込みは和らいできている。ここに来て雨模様の日が多くなってきたが、芽吹き始めた野や山、また、これから始まる畑などには、多少の恵みにはなったのだろうか。
掲載の画像は、紅葉苺(もみじいちご)の花である。後2ヶ月もすれば、オレンジ色の実を実らせるが、その味からは、人の手を借りず、自然の中で生き抜いている野生の逞しさを感じることができる。
来月には一年が経過するこの“盆地に吹く風”。旧“今日の一枚”から数えて3年と数ヶ月の間、山の麓の山野草を中心に、感じたままを写真と共に掲載してきた。当初、季節の風景を載せようと、気楽な気持ちで始めたが、温暖化による気候変動の大きさも手伝ってか、自然と接するその重さを、自分自身が実感する結果となったのは事実である。
日々の生活を含め、まだまだ中途半端な己を反省する中、今年も、芽吹きと共に、自然のエネルギーを感じる季節は廻って来てくれたようではある。

桜のシーズンは終わりを迎え、野も山もそろそろ本格的に木々・野草の芽吹きが見られる時期となってきた。雨量は極端に少なく、水不足が怪訝されるところだが、はたしてその恵みとなるのか、今日は雨模様の一日となる。だが、日中でも8℃程度と気温は低く、そろそろ御役御免と考えていた暖房機も、今夜は活躍しそうな感じである。
掲載の写真は、山の麓にある“風越プール”と呼ばれる、発電所の用水池を泳ぐカルガモの親子である。突然の出会いに少々慌てたため、残念ながら親鴨はカメラの枠内に入れられなかったが、小鴨たちの左側を見守るように泳いでいた。
この用水池、毎年何組かのカルガモの番いが飛来し子育てをするようだが、時折水を抜き干されるため、あまり良い環境とはいえないようである。
それでも、今年もその可愛らしい姿を見られたのは、異常な気候が続く中、ホッとしたというのは正直な気持ちである。
変わる環境と数多い天敵の中、この小鴨たちの何羽が生き残り大人の鴨へと成長できるのか分からないが、その泳ぐ姿に、つい「みんな生き残れ!」と応援したくなるのはやはり人情だろうか。
温暖化により、不変と思われたこの国の四季は変わりつつある。今後、植物、動物を問わず、人を含めてその影響を受けるのは必至と思われるが、その対策は急を要するはずである。それは、今まで環境を壊し続けてきた、我々人間という生物の責務ではないかと感じている。
自分自身の日常の暮しを、今一度見直す必要を感じながら、経済を含めて、変わらぬそのシステムと、変わろうとしない、変えようとしない世の動きに、憤りを感じるのは私だけなのだろうか。

4月も中盤に差し掛かり、朝晩の冷え込みのせいで、その散る時期を延ばしていた街中の桜の花も、そろそろ桜吹雪となるころだろうか。その冷え込みも、ややゆるやかに感じる今夜の気温である。
普段、私は、徒歩で10分足らずの距離にも拘わらず、夜の街中にはあまり出向くことはない。しかし、あるシンガーのライブを見るため、連れ合いと共に久しぶりに夜の市街地へと出かけることになった。
「豊田勇造」それがそのライブを行なう人物の名である。いわゆる、シンガーソングライターの部類と思うが、正直なところ、その名を知り得る人はそう多くはないかもしれない。私自身、一昨年のころ、知人から聞かされた名ではあるが、そのライブに出かけるのは今回が初めてである。そんな訳もあり期待半分で市街地にあるライブハウスのドアを開けた。
私の若かりし頃は、アンダーグランドミュージックと呼ばれる領域で、小さなライブハウスを中心に活動をしているミュージシャンが多くいた。今までの固定された“歌手”という概念を捨て、社会風刺を含め、自分たちの想いを自作の曲に込めて歌う彼らに、まるで憧れを抱くかのように、若者たちは皆、ギターをかき鳴らし濁声を上げて歌ったものである。
だが、世の流れが変わる中、徐々にその形を変え、現存する芸能界の中に、まるで吸収されるかのように消えていった。
このライブ、そんな遠い良き時代を思い起こさせてくれた。当然、私にとって心地良いものとなったのは言うまでもないが、曲の合間に35周年の記念コンサートのことを話す彼の生き方が、バブルに浮かれ、バブルに踊り、その崩壊で荒み、結果として格差社会に突き進んでいく今の世の中で、“ひときわナチュラル”に思えたのは、私の、ノスタルジーのせいだけではないのだろう。
今後、私が、ライブを含めて、彼の歌に耳を傾けるかどうかはまだ分からない。だが、仕事を含め、諸々に積み重なるものに痛めつけられていた私の心の中を、まるで山の麓の風のように、郷愁と心地良さを残して駈け抜けていったことだけは確かである。

昨日、冬型の気圧配置が強まったせいか、東京では霙まじりの荒れた天候となったようだ。ここ飯田地方も、雪とまではならなかったが、風が強く、日中でもあまり気温は上がらなかった。今が満開の桜、これで咲いている期間が多少延びる予感はするが、この寒さ、すでに暖かさに慣れ始めた身体にはさすがに辛いものがある。
掲載の写真は油瀝青(あぶらちゃん)という。植物の名にしてはなんとも奇妙な響きに感じるが、その種子から絞った油を、灯火などに使用したことから付いた名前とのことである。ちなみに“瀝青(ちゃん)”は、瀝青(れきせい)※の中国語の読み方らしい。
この油瀝青(あぶらちゃん)、雌雄異株ということだが、花の感じから、写真のものは雄株だろうか。この時期、山の麓では結構普通に見られる。花芽の多いものはそれなりに目を引くが、花自体は小さく、あまり目立つ存在とはいえないだろう。いかにも自生する植物らしく、そこが好めるところである。クスノキ科シロモジ属の落葉低木となる。
先日、TVの番組で南アルプスの異変を報じていた。温暖化の影響で動物・植物の生態系のバランスは大きく崩れ、森林などに大きな被害が出ているらしい。結果として、山は荒れ、そこに暮す人々にも大きな影響が出ることになる。
所詮人の招いたことと思っては見ても、自然と共に暮し、異変の要因を作り出す確率の低い人々が、真っ先にその被害に遇うのは、やはり不条理と思わざるを得ないだろう。“せめて”、自然と乖離して暮す我々は、気候を含むこの異変を、人が求めた欲の捌け口の結果として真摯に受けとめ、可能な限りその要因となる行動は止めるべきと感じる。
まるで春を告げるかのように咲く、こうした花々を見るにつけ、相変わらず減ることのない、茂みの中などに散乱するゴミの現状に、人の持つ傲慢(ごうまん)さと身勝手さを感じ、なんとも寂しい気持ちにさせられるのは確かである。

※瀝青(れきせい):
天然のアスファルト・タール・ピッチなど、黒色の粘着性のある物質の総称。また、石炭を加圧下でベンゼンを用いて抽出したときの抽出物。チャン。ビチューメン。
(大辞泉から)

次ページへ »