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4月を目の前にして、日中の気温もかなり高くなってきた。予報では、来週の初め頃まで雨模様が続くらしく、この週末も“晴天の花見日和”とはいかないようである。それでもこの時期の雨は、これから勢力を伸ばす植物には恵みとなるのは確か、雨のため“人の出”が少なくなれば、桜にとっては好都合になるのかもしれない。
それにしてもこの時期、桜の開花で世の中妙に騒がしい。「花の時期だけが桜ではあるまいし、この時期に花を付けるのは桜だけではなかろう」とばかりに、いつもの山麓まで春の探索に出向く。甲斐あってか、今年も木五倍子(きぶし)が咲いているのを見つけた。
この名前、その実が、黒い染料やインクの原料として利用される、白膠木(ぬるで)に付く“五倍子(ふし)”と呼ばれる“虫こぶ”の代用として使われたところから付いたとのこと。山の麓辺りではさほど珍しくはなく、至るところに見ることができるが、派手さがないためか、あまり注目されてはいないようである。昔から春を告げる代表的な花とされる。
木五倍子(きぶし)または木付子(きぶし)。通条花(きぶし)とも書かれるキブシ科キブシ属の落葉低木となる。
桜の開花といえば、計算違いによる桜開花予想の間違いを思い起こさせる。頭を下げるその関係者と、まるで鬼の首でも取ったかのように、それを報じるマスコミ。
時間枠が限られているTV報道、もっと伝えるべき大事なことは他にあるだろう。率直な感想である。
報じる側と受け取る側。その伝え方・内容共に、受け取り側の見解も含め、もう一度きちんと考える必要を感じる昨今。“花の時期だけが桜ではない”、“この時期に咲くのは桜だけではない”は、意外と重要な視角なのかもしれない。
そんなことを思いながら、週末は多分雨になるだろう空を、桜見たさに恨めしげに眺める自分の矛盾に苦笑する。

3月も終わり近づき、完全に寒さの峠は越えたのだろう、日中の気温はかなり上がるようになった。そろそろ本格的に春めいてくる気配である。
いよいよ桜のシーズンを迎え、天気予報に交えて聞こえてくる、桜前線の動きが気になる人も多いのではないだろうか。
神社の参道から続く飯田市街地の桜並木に、たまたま通りかかった時見つけた桜の開花。25日、日曜日のことである。
辺りを見れば、ソメイヨシノはまだまだだが、毎年逸早く花開くヒガンザクラ、脇の枝垂桜と、開きかかった木はかなりあるようだ。多分、久々の雨と日中の気温の上昇で、一気に開花が促されたのだろう。
日が傾き始めていたために、少々暗いのがたまに傷だが、今年最初の桜の写真である、多少の出来の悪さはご愛嬌と、思い切って掲載する。
この日、能登を襲った大きな地震。ここ飯田市でも震度3の揺れがあった。大きくゆさゆさと揺さぶるような横揺れは、その震度以上に不気味さを感じたというのが正直な感想である。TV報道などで被害の詳細が明らかになるにつれ、そのエネルギーの大きさに驚かされるが、大きな余震が続く中、被災地ではまだまだ不安が続いているようである。
今回の地震は日本海側。専門家も全く想定していなかったものらしく、地震予測の難しさを浮彫りにした形になったようだ。こうした大きな地震の時、やはり気になるのは原子力発電所の安全性である。今回、志賀原発は2機とも停止中であり、ゆえに事無きを得たとの話しだったが、続く改竄(かいざん)・隠蔽(いんぺい)の事件を思うと、その報告も全てを信じる訳にはいかないというのが本音だろうか。
いつ起きてもおかしくないと言われている東海大地震。予測される震源地の真っ只中にある浜岡原発。その安全性も懸念されるが、実体がほとんど表に出てこないことと、なぜかマスコミはあまり触れたがらないことが、さらなる疑念を抱かせる。
以前、遠い他国で起こった原発の事故。いまだに放射能汚染が続いているその現状に何を学べるのか、その対応は急を要するはずである。経済重視の向こうにある危険性を、そろそろ社会全体で受けとめる必要があると感じている。
最後になったが、今回の地震の被害に遇われた方々に、心よりお見舞いを申し上げたいと思う。

2月に比べ、戸惑うほどの気温の低下が見られた今年の3月。その3月も残り一週間を切った。
3月最後の土曜日となった今日、予報の通り午後から雨となった。気温は低く、やや冷たい雨とはなったが、乾燥続きだった最近を思うと、開花を目前にしている桜たちには“恵みの雨”となったのではないだろうか。
先日の“飯田城の紅梅”を撮影した同じ日、市街地の公園に山茱萸(さんしゅゆ)が咲いていた。春先、葉が開く前に黄色の花が咲くことからか、別名を“春黄金花(はるこがねばな)”というらしい。その原産地は中国・朝鮮半島。日本には享保年間ごろに、薬用植物として伝えられたといわれている。当然、民間薬として利用されるが、花や葉ではなく、秋に付ける赤い実を利用するようだ。焼酎に漬け込み果実酒にして利用するのが一般的らしく、病後の滋養強壮、疲労回復、冷え性、低血圧、不眠症などの効果があるということだ。そのためか、秋珊瑚(あきさんご)、秋茱萸(あきぐみ)とも呼ばれるようである。
山茱萸(さんしゅゆ)といえば、以前「今日の一枚」に掲載した、飯田市の美術博物館に植えられている大きな木を思い出すが、この木はまだ若いらしく、その枝振りは美術博物館のものとはかなり違う。それでも、その黄金色に輝く花は、桜の開く一足先に、廻り来る春を告げていた。
毎年桜が咲き、山茱萸(さんしゅゆ)が咲く。地球環境の面からも、木々があり、土がある街。人が歩いていてもホッとできる、そんな街の、そんな地域の発展を望みたいものだが、それは、それを推し進める側の思惑でかなり変わってくるは確かなようである。
来る4月は統一地方選挙がある。見え隠れする思惑の中から、どこが潤い、どんなところが虐げられるのか、それをしっかり見極めながら選ぶ必要を感じるが、今一つ各人の実態が見えてこないのも実情のようである。
格差社会が叫ばれ始めた昨今、国にしろ、地方にしろ、これ以上弱者が虐げられる社会にはしたくないものだが、それは、我々個人個人の意識と行動さえあれば、実現可能なことと信じたいものである。

東京辺りでは桜の開花が確認されたようだが、朝晩冷え込む日々が続く飯田地方、まだまだ開花宣言という訳にはいかないようである。
19日の日、歯科医への通院の帰り、久しぶりに市街地を歩いてみた。道すがら見かける桜の蕾(つぼみ)は、すでにかなり色付き始め、花開くその時を待っているかのように見える。先日載せた公園の梅は、ほぼ満開の状態。その芳しい香りを一面に振りまいていた。
ついでにと足を運んだ動物園前。入り口植えられている、樹高6m50cm、目通り41cm、樹齢約260年という古い大きな紅梅の木。動物園開設時に、旧飯田藩士邸より移植された梅である。昨年まで、約2年半続けた「今日の一枚」にも何度か載せたが、その時の状態と比べても、木も花も、共に生彩がなくなっていたのには、かなり衝撃を受けた。
思えば、最近この辺りは工事が続き、道と並行して植えられていた桜の木も、その道を広げるためになくなっている。
周りはコンクリートやアスファルトで固められ、毎日のように車の排気ガスを浴びせられ、こんな環境の中で“元気でいろ”と思うこと自体、どだい無理な話しである。変わっていく街と衰えていく“名木”。やがて人の身体にも影響を及ぼしかねないその現状を思ったとき、今の発展のさせ方は、やはり疑問を感じざるを得ないというのが正直な気持ちだろうか。
以前は見られなかった、その老木を支える金属の支柱を眺めながら、“彼”もきっと、こんな場所で終わりたくはないだろうという思いが頭に浮かぶ。それは、我々“人”も同じはずである。

このところ、2月と3月が入れ替わったような寒い日々が続いている。昔から「暑さ寒さも彼岸まで」というが、そろそろ、その寒さも終わりを告げて欲しいこの頃である。
日曜日のこと、快晴の好天気。朝の冷え込みを忘れさせるほどの暖かな一日となった。そんな陽気に誘われたわけではないが、久しぶりにカメラを片手の山麓散策。そろそろ、野草たちも本格的に目覚める頃である。
足もとの、めぼしい被写体を探しながら歩く私の耳に、「ヒュィン、ヒュィン」と軽やかな鳥の声が聞こえて来た。足を止め見回してみると、桜の枝に二羽の野鳥。そろそろ繁殖の季節、その“お相手”に意識が向いているのか、多少近づいても、枝を移動するものの飛び去る気配がない。忍び足で精一杯近づきなんとか撮影。
帰宅後調べたところ、どうやら“鷽(うそ)”という鳥らしい。なんとも不可思議な名に思えるが、「嘯く(うそぶく)」・「嘘吹き」・「嘘を吹く」などがその名の由来のようである。そもそも口笛を吹く様から使われた言葉だが、その鳴き声が口笛を吹く音に似ているところからついたという。しかし、その軽やかでやさしげな声を思うと、なんとも気の毒な気がする。
政界、経済界を含めて、重要なデータの改竄(かいざん)、都合の悪いことの隠蔽(いんぺい)と、その“うそ”が平然とまかり通るように見える昨今の人間社会。もしかしたら、我々“人”と言う生物の方が、“その名”には相応しいのかもしれない。

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