5月、新緑が目立ち始め、梅雨を前に一年の中で、一番すがすがしい季節となる。春、真っ盛りといったところだろうか、この時期、梨・林檎(りんご)などの果樹の花が咲き始める。
ここ飯田近辺は、林檎(りんご)栽培の南限と言われている。温暖化が進む中、今後、この地域の林檎(りんご)栽培がどう変わっていくのか分からないが、霜が降りる頃にその甘味を増すといわれている“フジ”を始め、それぞれの品種に大きな影響が出るのは確かだろう。現に、昨年は早々と葉を落とした木が多く、そのため、甘味が少なく果肉に張りのないものが増えたという。
国や地域の一次産業に大きな打撃を与えかねないこの温暖化だが、それによる経済的な損失を見据えてか、その対策らしい動きが各国で始まっているように見える。しかし、そこに経済発展の望みを託そうとするためか、方法を含めその動きの中に、新たな問題を生み出す可能性が多大に含まれているのは確かである。
最近耳に挟んだ話だが、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)から出される温暖化の実状は、各国の思惑が絡み合い、かなりトーンダウンされたものというのを聞いた。特に、二酸化炭素の排出量の多い、先進国といわれる国々は、経済発展の妨げになるのを嫌い、現状を軽く見たがる傾向にあるようだ。科学者の中には、そんな身勝手さに、激怒して席を立つ人もいたという。
こうした話し、人の“欲”と“愚かさ”を感じて、寂しい気分にさせられるのが落ちなのだが、今の地球環境、その“落ち”だけでは済まされない現状がある。世を知らぬお子様に対する意見でもあるまいが、「なんのための経済発展か」、「なんのための国の発展か」を、もう一度問い直すことは必須の事柄となりつつある。
それで思い出した訳ではないのだが、先日、ニュース番組の特集で、アイルランド地方のアルミ生産工場設立に、経済か環境かで揺れた住民の様子を、一組の親子に視点を当て、賛否の住民投票までを報じていた。
生活と経済から設立賛成の母親。選挙権がなく、自分たちの未来に環境汚染の要因を残すことへの不安の意志表示として、地道な反対運動をする娘。お互いの意見に揺れる親子。最終的に母親は反対票を投じるのだが、「あの時代の人たちは、何故こんなことをしてきたんだろうと思われたくはなかった」という決断に至る言葉が心に残った。
自分の地域の未来を思い、選挙権のない若者達の訴える言葉にも、真剣に耳を傾けて結論を出そうとする人々。右傾化を強く感じる昨今の流れの中で、まだ廃れていない民主主義を見たようで、嬉しさと共に安堵したのも事実である。
今見えているものと、その先起こり得るであろう現状。目の前に突き付けられたとき、その選択を誤らないためにも、人としての柔軟な心と、先まで見通した中で、何が“真”であるかを見極められる広い視野、加えて、その“意識”が必要なのだろう。
たぶんそれは、環境のみならず、経済も、人権を含んだ国同士の諍いも、誰しもが口にする世界の平和に関しても、同じことではないかと感じている。
自分自身、そうした場合に、間違いのない選択ができる確証があるとは言いきれないが、表面的に見えているものに惑わされることのないよう、“真”を見極められる目と意識だけは、いつも持っていたいと思っている。