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5月もいよいよ終盤。日によっての寒暖の差が激しく、やや不安定な気温に感じる昨今である。
今回掲載の写真は“稚児百合(ちごゆり)”。先日載せた、谷桔梗(たにぎきょう)と同じ5月13日の撮影となる。どこぞで聞いたことのあるその名、花が稚児(ちご)のように小さいことから付いたようである。梅雨前の4月~5月頃、小さな白い花を付けるようだが、そもそも咲く時期が短いのか、私の撮影した時期が遅かったのか、一週間後には花は終わっていた。
稚児百合(ちごゆり)、ユリ科チゴユリ属の多年草となる。
6月を前に、すでに入梅している沖縄・奄美を除き、日本列島はこれから梅雨を迎えることとなるが、昨年の飯田地方など、甲信越の入梅は6月の15日頃と記憶している。その前半、梅雨らしい雨は少なく水不足が怪訝されたが、梅雨も終盤に差し掛かる7月の中旬頃から、記録的な豪雨にみまわれ大きな被害を齎した。四季と共に、この国の季節の一つとして続いてきた梅雨だが、温暖化のため、その様相は一変しているようだ。果たして、今年はどんな梅雨が来るのか、こうして日陰の斜面に咲く野草の花と共に、期待と不安の入り混じった気持ちで待つことになりそうだが、5月も下旬、そろそろこの盆地にも、そんな梅雨の気配が漂ってくる頃である。

偶にはお気楽コーヒーブレイク♪
先日のこと、手打ちそば屋をしている知人から電話が入った。「鳥貝(とりがい)の良いのが手に入ったので、良ければ少しお分けしましょうか」と。
山猿ゆえ、あまり海産物に詳しくない私は、「おいしい食べ方も教えたい」との言葉に、そそくさと出向くことにした。
行ってみると、外で奥方が殻から中身を取り出している。海辺育ちの彼女、それでも殻付きを見るのは初めてという。殻のまま見られること自体珍しいと聞き、早速カメラに収める。
電話の主は厨房内で作業していた。そこには、綺麗に捌かれた鳥貝(とりがい)がザルの中に並んでいる。彼は、それを手に取り、「貝は生きていなければ駄目なんですよ」と言いながら、まな板に勢いよく叩きつけた。すると貝は、まるで痛さに耐え兼ねるかのように縮みながら動いた。その動きで、活きの良し悪しを見分けるようである。さすがプロと感心する。
教えられた食べ方は、「活きが良ければ生でも良し。さっと湯通してしゃぶしゃぶのように食べても良し」ということだ。そこまで聞き、適当な数だけ容器に入れてもらって家に持ち帰った。我が家は、その“しゃぶしゃぶ”でいただくことにする。
正直なところ鳥貝(とりがい)というと、今まであまり美味いものという印象はなかった。売られているものはすでにボイルしてあり、身は固く、匂いも味も、やや生臭いような記憶がある。しかし、こうして生きているものは別物のようである。その甘味と美味さは、貝類も、立派な“自然の恵み”ということを強く感じさせてくれた。
鳥貝(とりがい)、マルスダレガイ目ザルガイ科の二枚貝。殻の長さ及び、殻の高さは、共に8cm程度。水質汚染に弱く、内湾の水質劣化で国産品は激減しているとのことである。
山間に住む私。“山の環境は海に反映する”と、そんな責任を感じながらも、一時の幸福感に、まずは合掌。新鮮な海の味覚を味合わせてくれた、知人夫妻に感謝をしながら、その味に舌鼓を打った。
なお、3枚目の画像がボケているのは、食べるのに夢中でつい撮り忘れ、途中で気付いて慌てて撮ったためだが、たぶん、鳥貝(とりがい)の美味さが優ったのだろうと、訳の分からぬ言い訳である。

やっと5月らしいすっきりとした晴天が見られるようになってきた。月の初めの頃のような、異様な暑さはご免蒙りたいが、空が晴れると、なんとなく気分も晴れやかになるのは、たぶん誰しも同じだろう。
掲載の写真は、山麓公園に見つけた“谷桔梗(たにぎきょう)”。一週間ほど前の撮影になる。この日、この公園内はツツジが満開の状態。連休中ほどではないにしろ、それを目当てに押し寄せる人々。そんな人々を魅了するように咲く、ツツジの側に日陰の斜面がある。そこに、この小さな野草は白く可愛い花を咲かせていた。
手入れをされ、見事に咲き誇るツツジやサツキも、決して悪くはないが、人知れず咲く、小さな野草に心惹かれる私は、ツツジ見物で賑わう人々を尻目に、その斜面にへばりついての撮影となった。
統計によると、5月は、一年を通じて一番晴天の日が多いとのこと。降水量は少なく穏やかで、湿気も少ないため、一年の中で最も過ごしやすい月ではないかと思われる。そのためか、こうした小さな野草たちが、来る梅雨を前にその勢力を延ばし始める月でもあるようだ。
そんな5月の気候を表現するために使われる「五月(さつき)晴れ」という言葉がある。まるで、穏やかな5月の気候を象徴するかのように使われることが多いが、本来この言葉、梅雨の合間の貴重な晴れ間のことを言ったものである。「五月雨(さみだれ)」と共に、梅雨の気候を表した言葉だった。
「五月(さつき)晴れ」は「皐月(さつき)晴れ」、「五月雨(さみだれ)」は「皐月雨(さみだれ)」とも書かれ、「さつき」は、田植えの時期を表した「早苗月」が語源といわれている。また、「さみだれ」はその「さつき」の「水垂(みだれ)」ということらしい。
新暦になった今、その言葉の持つ意味を問うてみても始まらないが、その中に、季節と共に生きてきた我々祖先の暮しが見て取れる。その中に、季節の、自然の重要性を強く感じるのは確かである。
自然と乖離した現代社会でも、季節の持つ意味は大きい。温暖化による気候変動が進む中、種を守るために必至で咲くこの小さな野草に、自然と共に生きていただろう、遠い昔の暮しに思いを馳せてみる。

大型連休が終わり、早一週間経つ。日中の気温は22~23℃程度、先日の夏日(なつび)となった時とは違い、朝晩はやや肌寒さを感じる飯田地方である。
先日のこと、連れ合いが「今年イタドリを見ないねぇ」と言う。最近、山麓を訪れる回数が減った私だが、それでも4月の終わり頃から何度も目にしている。田舎とはいえ市街地近くの暮し、自然の少なさを痛感しながら、その虎杖(いたどり)採取のため山麓まで出向く。ちなみに、2枚目に掲載の写真は、その時の成果。3枚目は昨年8月に撮影した花である。
山野のどこにでも普通に見られる野草、虎杖(いたどり)。春、5月ともなると、タケノコ状の新芽が至るところで顔を出し始めるが、この新芽が食用になるのは結構知られるところだろう。私が幼き頃、近所の少年たちが採ってきた虎杖(いたどり)を一本もらい、塩をつけながら皮を剥いてかぶりついたのを憶えている。独特の歯ごたえとその酸味は、忘れられない味として、その香りと共に今でも記憶に残っている。
ところで、この“虎杖”という漢字、読み方との違和感を感じるが、若芽に見られる斑点状の模様を、虎の模様に例えたという中国名の「虎杖(こじょう)」から来ているようである。日本語での読み方は、傷などの血止めの効果とその鎮痛作用※があるということから、痛みを取る意味で「痛取り(いたどり)」になったという説と、表皮から糸状のものが取れるため、「糸取(いとどり)」が「いたどり」に変じたという説があるようだ。どちらにしても、中国名との混合名と思われる。
また、古来から中国では、この根を「虎杖根(こじょうこん)」といい、漢方薬として利用されているようである。虎杖(いたどり)食卓へ 撮影日:2007年5月13日 撮影:管理人
食用と薬用、毎度のことだが先人たちの知恵と、自然の持つ力のようなものを感じざるを得ないが、我が手によって採取されたその虎杖(いたどり)は、皮を剥かれ、筋を取られ、塩に塗され、一晩かけてアク抜きされた後、塩抜きされて食卓にお目見えとなった。
酸味と歯ごたえ。野性味あるその味は、一時の幸福感と自然の風を感じさせてくれる。本来、旬を味わうということは、こういうことなのだろう。実感である。
虎杖(いたどり)、タデ科タデ属の多年草。地域によっては「スイバ」・「スカンポ」などとも呼ぶようだが、本来それはギシギシ属の酸葉(すいば)を指す。ここ飯田地方では酸葉(すいば)は「スイコンボウ」、虎杖(いたどり)は「イタンドリ」と呼んでいる。

※若葉をもんで患部に塗る。実際には小さな傷の出血を止める程度。

低気圧の影響で、弱い冬型の気圧配置となったようだ。先日の夏日(なつび)がまるで嘘のような気温。夜は寒いくらいである。
掲載の写真は6日の日曜日のもの。天気は雨。あいにく雨具を持ち合わせていなかったため、車の車窓からのみの撮影となったが、雨というのもあって、人っ子一人見当らない山麓公園。じつに静かなものである。
連休中、ただでさえ狭い道路上に、まるで当然のように停められた多数の車のために、通行を妨げられたこの山麓公園。自然を求める人種が増えたのか、我が市の目論みか、冬場を除き、年々訪れる人が増えてきているが、同時に人間社会の利便性をそのまま持ちこみ、わがもの顔に振舞う輩(やから)が増えたのも事実である。
自然は人のためのみに存在するにあらず。自然には自然のルールがある。捻くれものの戯言(たわごと)と思われるかもしれないが、ついぞ、そんなことを叫びたくなる昨今である。
一時の静寂が戻ったこの自然に、今後の審判を託すこととして、雨の中、しばし新緑に浸る私だった。

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