« 前ページへ    次ページへ »


藪虱(やぶじらみ)藪虱(やぶじらみ)藪虱(やぶじらみ)藪虱(やぶじらみ)。どこにでも見られる雑草である。
5月頃から白い小さな花を付ける。先端のピンクがかったものもあり、よくよく見れば結構可愛らしい。ただ、その花が実となった時、衣服などにすぐにくっ付き、払ったくらいでは落ちないのでこまりものである。
そもそも、その実が虱(しらみ)のようにどこにでもすぐにくっ付くことから付いた名前のということだが、動けない自分たちの代わりに、人や動物の力を利用しその種を遠くに運ばせるための仕組み。子孫を残し生き延びるためとはいえ、彼ら植物たちの知恵のようなものには、いつも感心させられる。
梅雨の中、沖縄の方では豪雨により大きな被害がでている。今後その雨の区域は、九州から東海・甲信地方と移り、やはり激しい降雨が予想されている。
降りそうで降らず、降れば豪雨。この傾向は益々強まってきていると感じるが、異常気象が続くこの地球環境に、我々人類はどんな知恵を働かせることができるのだろうか。

紅葉苺(もみじいちご)の実フルーツソースとヨーグルト6月4日に撮影した紅葉苺(もみじいちご)。先週の土曜日にわずかだが採取してきた。
電子レンジという文明の利器の力を借りたようだが、我が妻の手でオレンジ色のフルーツソースとなり、ヨーグルトと一緒にお目見えとなった。
これでも立派な自然の恵みである。その味に季節を感じ、まだ残る自然に感謝したいところである。最近、やっとだが真の豊かさの形が見えてきた気がする。季節があり、作物が育ち、自然からの恵みもある。
その脅威と恩恵を忘れなければ、自然はまだまだ我々に力を貸してくれるのかもしれない。
そんな想いでその甘酸っぱい味に舌鼓を打った。

スズメバチの巣スズメバチの巣週末辺りから、やや気温が低いものの梅雨らしい天候が続いている。この時期、特に雨の日などは、麓からやや上の茂みに“ヤマビル”がいることが多い。先月の終わりころの楮(こうぞ)の花の撮影時にも2匹ほど靴の中に入られそうになった。
写真はその“ヤマビル”を警戒するため茂みに目を懲らした時見つけたもの。まるで徳利を逆さにしたような形に、なんとも芸術的な模様が付いている。
しばし見とれたが、先端の方にはかなり大きな蜂がいるの見えた。どうやらスズメバチの巣のようだ。まだ初期段階らしく、女王蜂が一匹で巣作りをしているようである。
女王蜂自体は攻撃性が低く、今の時期はむやみに刺激しない限り危険は少ないというが、やはり恐怖を感じるのは正直なところである。その女王蜂と思われる大きな蜂は、近くの私には目もくれず、巣作りの材料集めのためなのかどこかに飛び去っていった。その機にカメラに収めたのがこの2枚である。
このスズメバチ、夏から秋にかけて巣も大きくなり蜂の数も増える。その頃はかなり気が荒くなり、近くを通りかかっただけで攻撃されることもあるらしく、充分な注意が必要ということだ。
昔は、農家の軒先などには大きなスズメバチの巣があり、蜂たちが出入りしているのを見かけたことがある。活動期には彼らに刺激を与えないように静かに行動をしていたと聞いた。
今日、住宅などで巣が発見されればたぶん即刻駆除となる。その是非は別とし、それだけ現代社会の暮しが自然と乖離したということなのだろう。

苗代苺(なわしろいちご)苗代苺(なわしろいちご)本日、関東甲信地方と東北南部の梅雨入りが発表された。甲信地方は、昨年比、平年比共に一日早いということである。少々気温の低いのが気になるところだが、夏から秋と、これから生育する作物には大事な季節となる。
この時期、川縁の石垣などに小さなピンク色の花をつけた蔓性(つるせい)の植物を見かけるようになる。苗代苺(なわしろいちご)と呼ばれるものだが、目立たないその花は近寄ればかなり可愛らしい。バラ科キイチゴ属の多年草である。
苗代(なわしろ)が作られる頃に実が熟し、食べられるようになるところからその名が付いたということだが、この花が実となり熟すまでにはまだ間があるようだ。来月の始め頃には真っ赤に熟した実が見られようになるが、その頃は誰もが梅雨明け待ちの顔で空を見上げるようになる。
そんな変わらぬ季節の繰り返しを願いつつ、この花が実となるのを心待ちにしてみたりする。

紅葉苺(もみじいちご)紅葉苺(もみじいちご)紅葉苺(もみじいちご)6月も1週間が過ぎ、そろそろ梅雨の気配が漂う気候になってきた。この時期、山の麓では数々の植物たちが結実の頃を迎える。
写真は、紅葉苺(もみじいちご)。葉がモミジに似ることからその名が付いたとされるが、別名の黄苺(きいちご)の名の通りオレンジ色の実を付けはじめている。その味は、野性味あふれる中に木苺特有の酸味と甘味が口の中に広がり、そのままでも以外に違和感なく食べられるようだ。
春とは違い、力強い葉の色と人を誘うかのような木の実の存在に、植物たちの持つ強かさのようなものが感じ取れる。
そんな山の麓の様相に、まだ残る自然の逞しさを感じて安堵したのは確かである。
なお、一枚目の“花”は4月撮影のもの。

« 前ページへ    次ページへ »