空梅雨といわれている今年、すでに30℃を越える真夏日を経験する中、一日置きとはいえ、シトシトとした梅雨らしいお湿りに、ややホッとする週末だった。
6月もすでに後半となり、今後、夏に向けてその雨の量が気になるところだが、近年見られる、梅雨明け間近の豪雨だけはご免蒙りたいものである。
その梅雨の花として頭に浮かぶのは、やはり紫陽花(あじさい)だろうか。雨が似合うこの花、以外と歴史は古いようで、日本原産の植物らしい。しかし、園芸用の色鮮やかな“西洋アジサイ”と呼ばれるものは、18世紀頃、中国を経てイギリスに渡り、品種改良され逆輸入されたものということである。
掲載の写真は、6月初旬撮影の、“小紫陽花(こあじさい)”と、昨日の日曜日、雨の中で撮影した“山紫陽花(やまあじさい)”である。西洋アジサイほどの派手さはないが、どちらも日本固有の自生種となる。
この紫陽花(あじさい)、土壌の性質により、花の色を変えるのは有名な話だが、江戸時代には「七変化(しちへんげ)」などと呼ばれ、“移り気”・“心変わり”など、裏切りの象徴として忌み嫌われていたこともあるようである。

変わって良いもの悪いもの。憲法を含め、年金、教育とやたら変えたがる傾向の昨今、事の本質を置き去りにした形では、その変化は意味を持たなくなる。土壌が変わらなければ、咲く紫陽花(あじさい)の色も変わることはないだろう。表面的な色の変化を望む前に、その色の持つ真の意味と、その下にある土壌とも言える本質をしっかりと見据えることが、先決、且つ、重要と思える。さすれば、本当の変えるべき事柄は見えてくるはずである。
温暖化で変わりつつある季節の中、今年も変わらず咲く紫陽花(あじさい)に、ふとそんなことを考えた、梅雨空の週末だった。

毎度のことだが、入梅が発表されたとたん、雨が降らなくなった。以前ならば、その発表を決める機関の判断の甘さを笑う程度で済んだのだが、続く異常気象の中、雨の降らぬ現状は、かなり深刻なものとなってくる。暖冬で雪が少なかった今季、すでに節水に入った地域もあるようだ。
掲載の写真は、ご存知熊蜂(くまばち)。コシブトハナバチ科の蜂である。別名クマンバチとも呼ばれ、日本産ハナバチ類では最大といわれる。その別名が、スズメバチの俗称と同じためか、危険な蜂と思われがちだが、その風体のわりにおとなしく、よほどのことがない限り刺されることはない。雄は、針自体を持っていないようだが、近くを飛来するものを、手当たり次第追い掛けて、同種の雌を探す習性があると聞く。空中でよく見られる、熊蜂(くまばち)の追い掛けっこは、そういう意味があるらしい。
我が家の裏手には、ここに移り住んだ時に植えた、“ライラックらしき木”があるが、花の時期ともなると、この熊蜂(くまばち)たちが数多くやってくる。その大きさゆえなのか、聞こえる羽音は大きく、うるさいくらいである。
ところで、ずっとライラックかと思っていたその木、わが家では“偽ライラック”などと呼んでいたのだが、先日ネットで“水蝋の木(いぼたのき)”であることを知った。モクセイ科イボタノキ属、高さが6m程になる日本原産の落葉低木ということだが、花の終わる時期は結構大変である。ぽたぽたと降り注ぐように落ちる花の残骸で、その下に停めている私の車は悲惨な状態となる。しかし、梅雨に入るころにはそれも終わり、集まっていた熊蜂(くまばち)たちも姿を見せなくなる。
これを撮影したのは5月の終わりと6月の初め。すでに花が終わり、蜂たちが来なくなった今、水蝋の木(いぼたのき)の葉の間から、雨待ち顔で空を眺める。

そろそろ入梅するのだろうか、なんとも蒸し暑い日が続く。一昨日辺りは、西風によるフェーン現象なのか、北海道のオホーツク海側で、記録的な気温上昇が起こったようである。結果、沖縄や西日本よりも気温が高くなったと聞けば、これも温暖化の齎(もたらす)す現象なのかと、梅雨を前に今後が不安になってくるのは心情だろうか。
5月の終わりのことになるが、山の麓に綿毛のようなものを付けた、背の低い木を見つけた。まるでカビでも生えているような風体に、恐る恐る近づいたのだが、どうやら花のようである。
深山柳(みやまやなぎ)というようだが、見えた綿毛は、タンポポなどと同様に種子を運ぶためのものらしく、すでに風に吹かれ漂っているものも見られた。
この柳、深山(みやま)と名が付くことから、山地に生えることは推測できるが、調べたところでは亜高山帯から高山帯に分布するもののようである。通常、こんな麓にも生息するものなのかは分からないが、我が国の固有種ということもあり、外来種の多い中で、実際に見られるのはちょっと嬉しい気がする。深山柳(みやまやなぎ)、ヤナギ科ヤナギ属の落葉低木となる。
余談ともなるが、植物たちの生きる仕組みには結構興味深いものがある。そこに、自然の持つ逞しさや、強かさを感じるのは毎度のことだが、たまに、地球に流れている“時”のようなものを感じることがある。たぶんそれは、彼らが気の遠くなるような長い時間の流れの中、変わる地球環境と共に、その形態を変えながら今日まで生き延びて来たためだろう。
生物として歴史の浅い人類。その僅かな歴史の中で、紛争を繰り返し、環境破壊まで引き起こしている我々に、地球の“時”は息衝いているのだろうか。
その生物の一人として、つくづく思うことである。

朝から、不安定な天候である。断続的に降る雨と、時折、空に轟く雷鳴がなんとも不穏に感じるが、6月も一週間が過ぎたところ、走り梅雨といったところだろうか。
パソコンを使い、ネットがらみの仕事をしていると、雷というのはかなり気になる存在となる。急な停電、雷サージとその不安は多く、雷鳴を聞くたびかなり落ち付かなくなる私である。
思えば、子供の頃からずっと、夕立の真っ黒な空も、雷による光と音も、まるで自然の芸術を見るようで、なんとなく好きだった。変われば変わるものだと苦笑しながらも、これが現代社会の持つ脆さ(もろさ)かと、妙に納得してみる。
3日の日曜日のこと。幸い好天に恵まれ、最近、外に出る機会の減った私は、日差しに誘われるように、久々に山の麓を散策。
この時期の山麓は、僅かな期間でもその様相は変わる。今年の4月、白い花を付けていた紅葉苺(もみじいちご)はすでに結実を始めていた。まだその実は若いが、それでも熟れたものが幾つか見られる。早速、今年初の木苺採取となったが、さすがにその数はまだ少ない。しかし、元より自然がくれた恵みである、手に入ること自体幸せなことと感謝として、被っていた帽子に入れて持ちかえった。
今月の6日から、ドイツで開かれている、主要国(G8)の首脳会議(ハイリゲンダム・サミット)というのがある。2050年までに世界全体の温室効果ガス排出量を現状より半減させるとの合意に至ったらしいが、各国、損得を意識した綱引き合戦は変わらずのようだ。某大国ではないが、本来、一番先に来るはずである自助の努力は、決して外して考えて欲しくないものである。こうしたものが、経済発展のための、免罪符のような自然保護スローガンにならぬよう、国・経済界は当然のこと、私たち一個人も肝に銘じておきたいものだ。
自然のくれた小さな恵みの投稿時、重なるように聞こえてきたニュースの報道に、ふとそんな思いが心を駆け巡った。

梅雨が近いのか、午後辺りからどんより曇る日が多くなってきた。5月の終わり、31日には、ここ南信地方でも雹が降り、農作物に大きな被害が出たと聞いている。続く天候不順は増す一方に思え、これから向かえる梅雨への不安を感じさせるここ数日だが、日中でも気温はさほど上がらないようで、部屋の中にいてもやや肌寒さを感じる。
そんな6月の初めだが、山の麓では空木(うつぎ)の花が真っ盛りとなる。毎年、5月終わりから6月の初旬頃に花を咲かせるが、“卯の花(うのはな)”の名で、唱歌“夏は来ぬ”の歌詞に出てくることは、誰しも知るところだろう。
この空木(うつぎ)という名前、茎や根の中心が空洞のために付いたと聞いているが、“卯の花(うのはな)”という名は、卯月(うづき)の頃に花を咲かせることがその由来のようである。もっとも、この場合の“卯月(うづき)”とは旧暦の4月のことを言い、今の5月頃となるわけだが、新暦となった今でも、卯月(うづき)は4月のことを指している。
ところでこの卯(う)という言葉、十二支でいう“卯”のことのようだが、調べたところでは、卯(ぼう)とも読まれ、茂(ぼう:しげる)または、冒(ぼう:おおうの意)の意味があるらしい。すなわち卯月(うづき)とは、草木が茂り始める月ということのようである。その名の由来に、季節と共に生きていた遠き祖先の暮らしぶりが窺えるが、今日(こんにち)街中では、生垣も、この空木(うつぎ)も、ほとんど見かけることはなくなった。
空木(うつぎ)、咲いた花の別名を卯の花(うのはな)、ユキノシタ科ウツギ属、日本原産の落葉低木となる。
この花が終わりを迎える頃、この山の麓にも、梅雨の足音が聞こえ始める。