朝から、不安定な天候である。断続的に降る雨と、時折、空に轟く雷鳴がなんとも不穏に感じるが、6月も一週間が過ぎたところ、走り梅雨といったところだろうか。
パソコンを使い、ネットがらみの仕事をしていると、雷というのはかなり気になる存在となる。急な停電、雷サージとその不安は多く、雷鳴を聞くたびかなり落ち付かなくなる私である。
思えば、子供の頃からずっと、夕立の真っ黒な空も、雷による光と音も、まるで自然の芸術を見るようで、なんとなく好きだった。変われば変わるものだと苦笑しながらも、これが現代社会の持つ脆さ(もろさ)かと、妙に納得してみる。
3日の日曜日のこと。幸い好天に恵まれ、最近、外に出る機会の減った私は、日差しに誘われるように、久々に山の麓を散策。
この時期の山麓は、僅かな期間でもその様相は変わる。今年の4月、白い花を付けていた紅葉苺(もみじいちご)はすでに結実を始めていた。まだその実は若いが、それでも熟れたものが幾つか見られる。早速、今年初の木苺採取となったが、さすがにその数はまだ少ない。しかし、元より自然がくれた恵みである、手に入ること自体幸せなことと感謝として、被っていた帽子に入れて持ちかえった。
今月の6日から、ドイツで開かれている、主要国(G8)の首脳会議(ハイリゲンダム・サミット)というのがある。2050年までに世界全体の温室効果ガス排出量を現状より半減させるとの合意に至ったらしいが、各国、損得を意識した綱引き合戦は変わらずのようだ。某大国ではないが、本来、一番先に来るはずである自助の努力は、決して外して考えて欲しくないものである。こうしたものが、経済発展のための、免罪符のような自然保護スローガンにならぬよう、国・経済界は当然のこと、私たち一個人も肝に銘じておきたいものだ。
自然のくれた小さな恵みの投稿時、重なるように聞こえてきたニュースの報道に、ふとそんな思いが心を駆け巡った。