8月も中旬となり、今年のこの暑さもそろそろ峠を越えて欲しい思う中、猛暑を撤回した公の予報機関に異論を唱えるがごとく、厳しい残暑が続くここ数日、クーラーの類を使わない我が部屋の温度は、昨日39℃を越えた。市街地は元より、益々木々が減りつつある地域発展の方向性がやたら恨めしく思われるこの夏である。
そんな暑さから逃れるための冷房器具。変換された熱は外に排出され、さらに外気温を上げる。結果、その使用頻度はまた上がることになる。膨大なエネルギーをも消費する、そうした悪循環に加担するつもりはないが、自分の体温を遥かに越える室温には、ふと、その“自分勝手な快適空間”が羨ましくも思える。
写真は、掃溜菊(はきだめぎく)。撮影した山の麓では、6月頃から10月の終わりの頃まで咲いているのが見られるが、昨年もこの時期に載せたこの野草、“掃溜め”の名と共に、私の中では暑い夏のイメージとなっている。
エネルギーを含め、消費社会からの離脱が叫ばれて久しい中、結局その流れは止まることはなく、温暖化の加速とゴミの山が残る。戦後処理に目を向ければ、その責任の総括も終わらぬまま、再びその不安が頭をもたげ始めている。まさに“掃溜めと化した”とも言えるこの国の現状を、不本意ながらその名を持つこの野草は、どう見ているのだろう。
昔からのことわざに「掃溜めに鶴」というのがある。声高に叫ぶ「美しい日本」ではないが、“掃溜め”の現状を忘れ、表面の“鶴”のみを追いかけても意味のないことと、掃溜菊(はきだめぎく)を見てふと思う真夏の午後である。