8月6日、広島の“原爆の日”である。その朝、TVでは広島市で行なわれている式典が報道されていた。
『唯一の被爆国である日本国政府には、まず謙虚に被爆の実相と被爆者の哲学を学び、それを世界に広める責任があります。同時に、国際法により核兵器絶滅のため誠実に努力する義務を負う日本国政府は、世界に誇るべき平和憲法をあるがままに遵守し、米国の時代遅れで誤った政策に対し、はっきりと「ノー」と言うべきです』。
その、広島市長の言葉は、戦争と原爆の悲惨さを国内外に伝える重要性と、未だ癒えない被爆の傷の中、核廃絶に向けて戦う市と市民の姿勢を強く感じさせるものとして、心に残った。
写真は、『遺言「ノー・モア・ヒロシマ」 -未来のために残したい記憶- 』。その制作に携わっている、広島に住む知人から送られてきたもの。もう4巻目となる。
核拡散が怪訝される時代に入り、人類史上最悪の兵器ともいえる“核”の存在が、その恐怖と共にクローズアップされるようになってきた。しかし、未だ同盟国の核の傘に守られているという幻想の中、憲法改正から始まり、国は元より、経済界までもが、あわよくば非核三原則の見直しをも目論んでいるようにさえ思える昨今である。
誰しも口にする“平和”という言葉。お題目では何の意味もない。被爆と敗戦という経験の中、もう一度、あの時代に何があったのか、何故戦争に突き進んだのか、国民はどうすべきだったのか、国の戦争責任も含めて、目を逸らすことなく自らに問い直す必要があるのだろう。
真の意味で、この国が世界の平和のために出来ること。それは、海外派兵や後方支援などではないだろう。まず、戦争放棄を謳った“憲法の理念”を理解し、“全ての核保有国”に対し、核廃絶の必要性を、被爆の悲惨さと共に、伝え働きかけることではないのだろうか。それが、唯一戦争によって被爆した国の責務、その一つではないかと感じている。
コメント(2) “原爆の日に思う”
コメント入力フォーム
この記事へのトラックバックURL
http://mytown.main.jp/blog/wp-trackback.php?p=245
http://mytown.main.jp/blog/wp-trackback.php?p=245
核を使うとどうなると言うことが分かっていてなぜ世界から核弾頭がなくなることがないんだろうね。
まったく人間って言うのは・・・・
日本で仕方ない発言が問題になっていますが、爆弾を落としたアメリカでは教師が戦争を終わらせるために必要だったんだと教えているそうです。
この核投下がなければ占領して植民地になってもっと多くの人が死んだはずだと。
さすが落とした側だよね。正当化しちゃってるもん。
日本もそれを知っていて野放ししてきた責任あるよね〜
そうじゃないんだ!他に手はなかったのか!しょうがないと言う理由で核を使っていいという理由にはならないんだって。今も苦しんでいる人がたくさんいるということ。使ったらどうなる。唯一被爆したことのある日本だからこそ伝えていけることってきっとあるよね〜
それを広めないでどうする・・・・
やっぱり政治家は一般国民とは常識がちがってるんだね〜
いい例が政治資金の領収書の添付は1円からと言ったら出来ないわけないという人もいたが一部では『おかしな世の中になったもんだ!』とほざいた政治家がいたらしい・・・
政治家はどうかしてるよ。。。
なんとも愚かなこととは思いますが、他の国より、力の上で優位に立ちたいという考えからか、一度持ってしまうと、なかなか放棄は出来ないのが、核なのでしょうかね。冷戦時代から、それが力の均衡を保つ方法と思われてきたようですが、本来は、核の抑止力などは幻想だと、早く気付くべきなのですが。
私たちの住む国にとってあの戦争は、被害者であると同時に、残酷な加害者だったともいえます。その反省と責任を背負った上で、「たとえ、どんな理由があっても、核は絶対に使うべきではない」と伝えることが大切なのでしょうね。そうしなければ、落とした国の言い分に“待った”をかけられないように思います。
あの時、戦争に向かって突き進んでしまった訳。それを止められなかった訳。反対の声さえ上げられなくなっていった風潮。
その全て、その時代生きていた一人一人にその責任があるように思います。
それを繰り返さないためにも私たち一人一人が、世の動きをしっかり見極め、おかしな事には、はっきりと声を上げていくことが大切と思います。
今の政治家の体たらくは、私たち個人個人の無関心が作ってきたとも言えるでしょうね。
後々、「あの時代の人達の無関心とその行動が今の惨事を産んだ」と言われないようにしたいと、今までの反省を含めながら考えています。